高校時代の記憶
深く読んだものが理解されるとは限らない
高校のころ、私はたびたび人とは少し違うものの見方をしていることに気づいた。
それは別に、反抗したかったからではないし、
ひねくれていたわけでもない。
ただ、問いを前にすると、どうしても表面より先にその奥のほうへ意識が入ってしまうことがあった。
そのせいで、うまくいくこともあれば、妙に深く失望することもあった。
その両方を私は高校の授業で覚えている。
ひとつは英語の授業だった。
課題は、関西弁の「めっちゃ好きやねん」を、like と love を使わずに英語にしなさい、というものだった。
教室の空気は、いかにも軽い課題という感じだった。
ちょっとひねった言い換えを考えて、みんなで笑って終わるような、そんな種類の問題に見えた。
でも私はその言葉を前にして少しだけ立ち止まった。
「好き」を禁じられたとき、残るのは何だろう。
その人がいなくなったら困る、では弱い。
会いたい、でも少し違う。
もっと切実で、でも言いすぎではないもの。
それで私はこう書いた。
I can’t live without you.
自分では悪くないと思ったし、
少なくとも問いの意図にはちゃんと触れている気がした。
そのあと、隣の席の生徒と答案を見せ合うことになった。
私は自分の紙を見せた。
すると相手は少し困ったような顔をして言った。
「それ、合ってるかどうかわからない」
そう言われて私は相手の答案を見た。
I like you.
いや、like は使うなって言われていたはずだが、と思った。
でも、その瞬間の私は呆れるより先に、相手のことが少し心配になった。
あぁ、こういう問いを前にすると、正しいかどうかさえ見えなくなることがあるのか、と思った。
禁止されている言葉をそのまま書いた人間に、こちらの答えの正しさを心配されている。
進学校の授業にしては珍しく面白い問題が出たと思った矢先、その反応ひとつで、
場の面白さがすっと引いてしまった。
あとで教師が答案を見て私の答えを褒めた。
派手な出来事ではなかったが、
静かな勝ち方だった。
表面どおりに処理するのではなく、言葉の奥にある感情まで掘っていったとき、ちゃんと届くこともある。
その小さな手応えを私は今でも覚えている。
もうひとつは、国語の授業だった。
こちらはまったく笑えない。
教科書に載っていた小説に雪山をひとりで登る人物の描写があった。
頂上近くのほとんど真っ暗な雪山だったと思う。
安全ロープもない。
しかも、世界から音が消えている。
その場面について教師が聞いた。
「作者は、なぜ不気味だと感じたのでしょう。何が欠けていたから、そう感じたのでしょう」
私はその文章を読んだとき、情景がそのまま頭に浮かんでいた。
黒い雪山。
頂上近く。
ひとり。
音がない。
もし自分がそこに立っていたら、何が怖いだろう。
何が不気味だろう。
そう考えたとき、自然に出てきた答えはひとつだった。
音。
教師に指された私はそう答えた。
すると教師はきょとんとした顔をした。
「は?」
私はもう一度言った。
音。
でも教師はそこで私を切り上げ、別の生徒に向かって聞いた。
「山田くん、何が欠けていたから不気味だったのかな」
山田くんは答えた。
「安全ロープです」
教師は言った。
「はい、正解」
その瞬間、私は心の中でそれは絶対に違うと思った。
それは違う。
安全ロープがないのは危険ではある。
でも、不気味さの芯はそこじゃない。
日常の中で、完全に音の消えた世界なんて、普通はない。
世界から音が消えるということは、世界とのつながりそのものが切れるということだ。
だから不気味なのだ。
私はあの授業に、本当にがっかりした。
しかも国語教師だった。
最初は、もしかしたら教師はわざと安全ロープという餌を置いて、生徒がそこに引っかかるかどうか試しているのかと思った。
でも違った。
時間がたつほど、教師自身がその餌にきれいに引っかかっていて、それを本気で正解だと思っていることが伝わってきた。
そのとき私の中に湧いたのは単なる不満ではなかった。
失望だった。
この人は本当に文学を読んでいるのだろうか。
文字の向こうにある世界を、受け取ろうとしたことがあるのだろうか。
そんなことを高校生の私はかなり真剣に考えていた。
あとから振り返ると、この二つの授業は妙なくらい対照的だった。
英語の授業では、少し深く潜った答えがきちんと拾い上げられたのに、
国語の授業では、まさにその「深く潜る」ということ自体が、最初から存在しないものみたいに扱われた。
ひとつの教室では問いの奥へ行っていい。
もうひとつの教室では、奥へ行くと「何を言っているかわからない子」になる。
その差は当時の私にはかなり大きかった。
でも、いちばん大きかったのはたぶん別のことだ。
私はあのとき、自分の感覚のほうを捨てなかった。
みんなが安全ロープだと思っていても、教師までそう言っていても、
それでも私は音だと思った。
そして今でも、あれは音だったと思っている。
危険と不気味さは似ているようで違う。
安全ロープがないことは、身体にとっての危険だ。
でも、音がないことは、もっと根本的な断絶の気配に近い。
自分がまだ世界に触れているのかどうか、その感覚そのものが薄れていく。
あの不気味さは、そういう種類のものだった。
たぶん私は、子どものころから、そういうところばかり見ていたのだと思う。
人が表面で受け取って済ませるものの奥にある、言いにくい感触。
説明しにくい違和感。
何となく正解にされているものの、ほんとうの正体。
それはうまく褒められる能力ではない。
むしろ、場面によっては面倒なものとして扱われる。
でも、それでも、その感覚があったからこそ見えたものが確かにある。
思い返せば、高校時代の私は正解を探していたというより、
問いのほうに忠実であろうとしていたのかもしれない。
問いが本当に聞いていることは何か。
言葉の表面ではなく、その奥で震えているものは何か。
そういうことばかり私は気にしていた。
だからこそ、英語の授業の小さな承認は嬉しかったし、
国語の授業の浅さには長く残るほど失望した。
どちらも今の自分につながっている。
表面だけをなぞる答えではなく、
その言葉がどこから来たのかを考えてしまうこと。
空気の奥にあるものを、つい読もうとしてしまうこと。
みんなが当然のように受け入れている説明にひとりで引っかかってしまうこと。
あのころの私は、まだそれを長所とは呼べなかった。
たぶん、少し生きづらい癖のように感じていた。
でも今ならわかる。
あれは単なる気難しさではなかった。
問いに対して、できるだけ誠実でいようとする感覚だったのだ。
そしてたぶん、その感覚は今もほとんど変わっていない。