お金で精算される関係
相続や介護の場面で見えてくる、感情と責任のずれと、持ちこたえられる関係のかたちについて
SNSで、ときどきよくできた話を見る。
長年冷たくしてきた息子には何も渡さず、
面倒を見てくれた娘夫婦に大きな金を渡した、というような話だ。
たいていそういう話は、
最後に因果応報がきれいに決まる。
読後感も悪くない。
ひどいことをした人には報いがあり、
誠実だった人が報われる。
話としては、かなり整っている。
何かが抜け落ちている気がした。
たぶんそれは、この話が金を渡した側の視点でしか語られていないということだ。
もし、その人に渡せる金がなかったら、
この話はどうなっていたのだろう、と。
娘夫婦が長く支えてきたことは変わらない。
息子が距離を置いたままだったことも、たぶん変わらない。
ただ、最後にそれを見える形にする場面だけが無くなる。
つまりああいう話では、
お金は原因ではなく、
ずっと曖昧だった関係を、
最後に可視化する装置として置かれているのだと思う。
だからあの手の話は、
お金の話であると同時に、
関係が何によって精算されるのかという話でもある。
相続かもしれない。
介護かもしれない。
同居かもしれない。
あるいは、最後に誰が何を引き受けたか、ということかもしれない。
ふだんはごまかしていられる距離や不均衡が、
そういう場面で急に輪郭を持つ。
それで思うのは、
人間関係は、情だけで維持されているわけではないということだ。
とくに親子のあいだでは、
そこを曖昧にしたまま話が進みやすい。
親なのだから。
子なのだから。
血がつながっているのだから。
そういう言葉は便利だ。
便利だが、現実をかなり雑にしてしまう。
実際には、
親子だからといって、
同じだけの情があるとは限らない。
感謝があるとも限らない。
一緒にいたいと思えるとも限らない。
むしろ、できるだけ離れたかったという人もいる。
それでも現実のどこかで、
完全に見捨てるわけにはいかない、という感覚だけは残ることがある。
そのとき人は、
感情ではなく責任で支える、という形を選ぶ。
この線引きは、外から見ると冷たく見えるかもしれない。
でも実際には、かなり誠実な判断だと思う。
一緒に住むことだけが支えることではない。
そばにいることだけが愛情でもない。
家賃を負担することもある。
生活費を出すこともある。
施設に入るなら、その費用を引き受けることもある。
それは、情の薄い対応というより、
共倒れしないための現実的な支え方だ。
介護や同居は、
気持ちだけでは続かない。
生活があり、
仕事があり、
こちらにはこちらの家庭もある。
専門性のない人間が、
義務感だけで抱え込めば、
支える側も静かに壊れていく。
だから、どこまで引き受けるのかを決めることは、
逃げではなく設計に近い。
できることと、
やるべきことは、
同じではない。
ここを混ぜると、
親子の話はすぐに苦しくなる。
本当は恨みが残っている。
会えば昔のことを思い出す。
学ばせてもらったとか、
感謝しているとか、
そういう気持ちにはなれない。
でも、それと、
老後をどう支えるかは別の話だ。
許したから支えるのではない。
仲がいいから支えるのでもない。
ただ、自分で引ける責任の線を引いているだけだ。
そのほうが、たぶん長く持つ。
親子の関係を美談で包む話は多い。
最後にお金が出てきて、
きれいに決着がつく話は、
とくにわかりやすい。
でも現実は、そんなに整っていない。
感謝と恨みが一緒に残ることもある。
距離を置いたまま責任だけは引き受けることもある。
そばにいないほうが、
かえって関係が壊れずに済むこともある。
そういう中途半端に見える形のほうが、
実際にはずっと現実に近い。
お金は、関係の代わりにはならない。
金を出したから、愛情があったことにはならないし、
一緒に住んだから、良い親子だったことにもならない。
ただ、お金は、
それまで曖昧にしていた関係の輪郭を、
妙にはっきり見せることがある。
誰が長く支えたのか。
誰が距離を取ったのか。
誰が無理をして、
誰が見ないふりをしていたのか。
そういうものが、
相続や介護や生活費の話になったとたん、
急に数字の形で前に出てくる。
親子だから、
最後には分かり合えるとは限らない。
恨みは恨みのまま残ることもあるし、
距離を取ったまま終わることもある。
それでも、
自分が引き受けられる責任の範囲を決めて、
その中で支えることはできる。
きれいではないが、
私はたぶん、
そういう形のほうを信用している。
関係は、整っているかどうかではなく、
持ちこたえられるかどうかで決まるのだと思う。