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起業リアリティの本質

起業を見せる番組と、実際に始めることのあいだにあるずれについて

少し前にYouTube で起業リアリティ番組のようなものが流行っているという話をある人から聞いた。
昔の「マネーの虎」みたいに、人前で事業アイデアを語り、有名な投資家や起業家がそれを評価する。
しかも、投資が決まるまで共同生活までさせ、その様子もコンテンツとして流すという。

その話を聞いたとき、私は、起業したいならそんなことをしている場合ではないだろうと思った。

もちろん、エンタメとして見ればわかりやすい。
夢を語る人がいて、それを値踏みする人がいて、場が少し緊張し、ときには派手に否定される。
視聴者にとっては、起業というものの入口を、覗き見しているような気分にもなれるのだろう。

でも、ああいう場で見えているものは、起業の本体ではない。
むしろ、起業のまわりにまとわりつく、見栄えのいい表面だけだと思う。

本当に何かを始めるときに必要なのは、共同生活ではない。
人前で通るプレゼンでもない。
まして、有名人に気に入られることでもない。

もっと地味なものだ。
誰にも見られていないところで手を動かし、仮説を試し、うまくいかなければ少し直す。
小さく売ってみる。
反応を見る。
続かなければやり方を変える。
起業の実感は、たいていそういう場所にしかない。

だから、経験のない人が大きな舞台に出て、自分の構想を熱く語り、運よく投資まで受けたとしても、
その先を本当に回していけるのだろうかと思う。
資金調達は、事業の始まりではあっても、本番ではない。
本番は、そのあと延々と続く、目立たない運転のほうにある。

しかも、ああいう番組で権威の位置に座っている人たちに、
それほど確かな目があるとも私は思わない。
一度うまくいったことと、他人の事業の芽を見抜けることは、別の能力だ。
自分の成功が、時代や運や環境にどれだけ支えられていたかを忘れたまま、
まるで普遍的な正解を知っているかのように振る舞う人もいる。

もっと言えば、最初から資本や名前を持っていた人が、
そうでない誰かの夢に値段をつけている光景には、どこか冷えたものを感じる。
そこでは事業の中身よりも、権威のほうがよく見えてしまう。

しかも、資金を受けるということは、単に金額が増えるという話ではない。
場合によっては、そういう場で目立つことに強く惹かれている人に、
自分の会社の一部を握られるということでもある。
それをありがたい縁だと感じる人もいるのだろうけれど、
少なくとも私は、できるだけ静かな感覚で仕事をしたいと思ってしまう。

そして、ああいう番組は往々にして、育てるための場ではなく、切るための場になる。
未熟なアイデアを一緒に育てるのではなく、
甘い、浅い、現実が見えていないと切って捨てる。
その瞬間の強い言葉や、否定された側の表情のほうが、再生数になるからだろう。

でも、起業とは本来、そういう公開処刑に耐えられるかどうかを試すものではないはずだ。
大きな言葉で叩かれたかどうかより、
実際に何かが売れたか、誰かが使ったか、続けられたかのほうが、ずっと重要だ。

視聴者の多くは、たぶん純粋に面白がっているのだと思う。
その感じもわからなくはない。
起業に少し興味がある人ほど、ああいうものを見て、
自分も何かを始める側に近づいているような気分になるのかもしれない。

ただ、その感覚には少し危うさがある。
起業を見ていることと、起業していることは、まったく別だからだ。
話せるアイデアを持つことと、実際に回せる仕事を持つことも、だいぶ違う。

本気でやりたいなら、もっと小さく始めればいい。
会社を作るなら作るでいいし、そこまでいかなくても、まずひとつ売ってみればいい。
誰かに見せる前に、自分で始めればいい。
見栄えは悪くても、そのほうがずっと現実に近い。

株式会社だって、思っているほど遠いものではない。
資本金は一円からでも始められるし、定款認証や登録免許税などの設立費用を見込んでも、
二十万円前後あれば、とりあえず入口には立てる。
少なくとも、ショーに出て起業したい顔をしている時間があるなら、そのあいだに登記の準備をしたほうが早い。

たぶん、起業の本質は、承認されることではない。
静かな場所で、自分の手で現実を少しずつ動かしていくことだ。

だから私は、起業リアリティ番組が流行っていると聞くたびに、
あれは起業を見せているようでいて、じつは起業からいちばん遠い場所を
映しているのではないかと思ってしまう。