FP-1100とベータと確実性
少年の無垢な問いについて
世の中には、誰にも気づかれないまま消えていく音がある。
音楽でもない。
言葉でもない。
記録するほどのものでもない。
ただ、古い画面に文字が出るときにだけ、かすかに混じる、あの小さなノイズ。
あれが本当に鳴っていたのか、それとも記憶があとから勝手に足したのか、今になってもよくわからない。
でも、家に最初に来たコンピュータのことを思い出すと、私は今でもその音を聞く。
文字が一行出るたびに、機械が小さく息をするみたいな音だ。
たぶん、あれは CASIO の FP-1100 だった。
たぶん、である。
記憶というものは、機種名には雑なのに、空気だけは妙に正確だ。
七色のモノクローム。
控えめすぎる表現力。
サウンドはビープ音のみ。
友だちの持っている派手なマシンたちとは、明らかに違う枝の未来に属している感じ。
友だちは FM-7 を持っていた。
あれはずるかった。
色がある。
音がある。
画面の向こうにちゃんと「世界」がありそうな雰囲気がある。
子どもにとっては、それだけで十分に未来だった。
それに比べると、うちの FP-1100 は、いかにも本命じゃない感じがあった。
ピッと鳴る。
じっと待つ。
妙に辛抱強い。
言ってしまえば、かなり地味である。
それでも私は、その地味な機械を見つめていた。
子どもというのは、自分で選んでいないものに限って、なぜか「もしかしたらすごいのかもしれない」と信じたくなることがある。
その信仰に、いちおうの根拠を与えてくれたのが、パソコン雑誌だった。
たしかベーマガだったと思う。
そこに、FP-1100 用のマシン語ゲームが載っていた。
月面を車が走る、横スクロールのアクションゲーム。
障害物を跳び越えて、ぶつからないように進んでいく。
それだけでも胸が熱くなったのに、さらにまずかったのは、画面写真がちゃんと格好よかったことだ。
しかも、解説には、ただのビープ音ではない、音楽みたいなものまで鳴ると書いてあった。
そんな馬鹿な、と思った。
うちの FP-1100 が、そんなことを?
でも、雑誌に載っている以上、本当なのだ。
誰かが、私と同じようにちょっと不遇なこの機械を使って、そこまでやってのけた。
その事実だけで、もうかなりの事件だった。
だから私は、子どもがまだ「便利」に甘やかされる前の時代らしく、おとなしく打ち込むことにした。
エディタなんて気の利いたものはない。
Undo もない。
優しいエラーメッセージもない。
起動時に BREAK キーを押して、よくわからないまま機械語モードに入り、16進数の羅列をひたすら打ち込んでいく。
意味のわからない記号を、未来が入っていると信じて、一文字ずつ運んでいく作業である。
一文字でも違えば、だめ。
一行でもずれれば、だめ。
夢というのは、だいたいこういう不親切な形式で配布される。
私は打った。
延々と打った。
そして、全部を打ち終える前に、機械が音を出した。
いつもの「ビープ音」ではなかった。
もう少し別の音だった。
今聞けば、たぶん大したことはない。
ほんの小さな変化だったのだと思う。
でも、そのときの私には、壁に細い割れ目が入って、その向こうから別の世界の空気が漏れてきたみたいに感じられた。
ああ、この機械、まだ何か隠していたのか。
たぶん、あれが最初だった。
プログラムを完成させた瞬間ではない。
結局、私は途中で挫折した。
どこかで打ち間違えたのか、面倒になったのか、集中力が尽きたのか、とにかく最後までは行けなかった。
でも、もう十分だった。
半分くらい見くびっていた機械が、こっちの知らない声で応答してきた。
それだけで、かなりまずかった。
子どもがコンピュータにハマるには、十分すぎた。
雑誌の惹句も、今でも覚えている。
「FP-1100 ユーザーが涙して喜ぶプログラム」
大げさなのに、妙に優しかった。
あの一文を書いた人は、きっとわかっていたのだと思う。
スペック表を見比べるたびに、なんとなく肩身の狭い思いをしていた子どもたちのことを。
色も音も派手さも足りない機械の前で、それでも何かを夢見てしまう人間のことを。
今なら言える。
夢を見させてくれて、ありがとう。
もっとも、その FP-1100 を買ったのは私ではない。
父だった。
そして父は、ガジェット選びに関して言えば、歴史に報われない道を選ぶ才能の持ち主だった。
みんなが本筋を選ぶところで、うちだけ少し横道に入る。
世間が VHS に向かっているときに、うちには Betamax のビデオデッキが来る。
子どもの頃はそこまで理屈で整理していなかったが、家庭に流れ込んでくる機械の気配というものは、なんとなく感じる。
よその家には「正解」がある。
うちには、ちょっとだけ惜しい別解が来る。
そんなある日、父が帰ってきて言った。
「ほら、空のテープ買ってきたぞ」
あれ、誰か空のテープ欲しがってたっけ、という思いが浮かんで、消えた。
1本の空テープ。
なるほど。
しかし、明らかに様子がおかしかった。
まずシュリンク包装がされていない。
その時点で、かなり怪しい。
しかも、なぜかテープが最後まで送られている。
空どころか、どう見ても一度きっちり再生済みである。
私はまだ小学生だった。
もちろん、確認した。
しないわけがない。
しかし、当時、小学生中学年だった私は、それを性的な意味ではまったく理解できなかった。
ただ、あまりにも露骨すぎて、むしろ妙な気味の悪さだけが先に立った。
まだ夕方放送されるちょっぴり大人な番組のほうが興味をそそられた。
その当時、父がどうしてこの「空」と言い張るテープをわざわざ持ってきたのか、
全く理解できなかった。
本当に意味がわからなかった。
なので自分でも意味のわからない行動を取った。
リビングに家族が集まっているなか、そのテープを再生した。
静かに空気が固まっていったのを覚えている。
父がなにか言いかける前に STOP のボタンを押して、リビングから出ていった。
あの時、家族は何を思ったのだろう?
今になって振り返れば、あれが何だったのかはわかる。
いまは亡き父に贈る言葉があるとすれば、
子どもの観察力を甘く見てはいけない、ということだ。
今なら笑い話にできる。
でも当時は、未来への夢とか、マシン語の神秘とか、そういうきれいなものが漂っていた家の空気に、いきなり妙な染みがついた感じがした。
しかも後から振り返ると、その時代の記憶の中では、FP-1100 の夢とベータの事故が、きれいに同居している。
そこがまたややこしい。
さらにややこしくするように、学校では学校で、別方向の「確実性」が待っていた。
保健の授業で、ライオンか何かの交尾シーンを見せられたときだった。
ナレーションが、哺乳類は精子を卵子に届けるために「もっとも確実な方法」を使う、みたいなことを真面目な声で言った。
私はそこで引っかかった。
確実って、何がどう確実なんだろう。
それで手を挙げて聞いた。
「その『確実』って、どういう意味ですか?」
いま思うと、教師にとっては、かなり嫌な質問だったと思う。
みんなが雰囲気で飲み込んでくれるはずの言葉を、急に定義しろと言われたのだから。
先生は、少しむっとした顔で言った。
「そりゃぁ、突っ込むんでしょ!」
なるほど、と思った。
でもふと立ち止まった。
先生の答えは答えているようで答えていない。
でも、何を?
そう聞きかけて、やめた。
教室の空気が、それ以上を望んでいなかったからだ。
大人というのは重要なことほど、妙に気まずそうに曖昧な言い方をすることがある。
その感じが、私は妙におかしかったし、少し居心地が悪かった。
たぶん、それでこの題名が妙にしっくりくるのだ。
FP-1100とベータと確実性。
並べてみると、かなり変だ。
変なのに、妙に本当っぽい。
ここには三つの入口がある。
制限だらけの機械の中にも魔法が潜んでいると教えてくれた FP-1100。
大人というものが、思っている以上に雑で、タイミングが悪く、妙なものを子どもに手渡す存在でもあると教えてくれた Betamax。
そして、何となく通じていることになっている言葉を、本気で問い返すと、教室の空気そのものが止まるのだと教えてくれた「確実性」。
振り返ってみても、きれいな成長物語にはならない。
モノクロの画面。
かすかな電子音。
気の利かないのに、どこか憎めない父。
16進数の羅列。
妙な空気になる教室。
全部ちぐはぐで、全部同じ時代の中にある。
その真ん中で、ひとりの子どもが、
「できるって、どういうことなんだろう」
と、たぶんずっと考えていた。
未来は、そんなに上品な顔では来なかった。
ピッという音で来た。
打ち間違いで来た。
気まずさで来た。
少し残念な機械と、かなり判断の怪しいテープで来た。
でも、ちゃんと来た。
そして今でも、あの頃いちばん大事だった音は、成功の音ではなかった気がしている。
プログラムを打ち終える前に、ふっと漏れた、あの別の音。
あれが聞こえた瞬間、私はたぶん初めて知ったのだ。
この機械も。
この人生も。
見た目より、少しだけ奥行きがある。