Chapter 1
違和感にはまだ名前がない
会議のかたちは整っているのに、そこにいるたび何かが少しずつ削られていく。
朝の会議は、たいてい静かに始まる。
誰かが画面を共有し、数字を読み上げ、予定を確認し、昨日までの進捗が表に並べられる。見た目だけなら整っている。発言の順番も決まっているし、議題も事前に配られている。問題があるようには見えない。
それなのに、毎回少しずつ何かが削られていく。
最初のころ、私はそれを自分の性格の問題だと思っていた。些細な言い回しに引っかかるのは、自分が神経質だからだろう。会議の空気が重く感じるのは、こちらの受け取り方が悪いだけかもしれない。誰も露骨に怒鳴っているわけではないし、表向きは穏やかに進んでいる。だから、うまく説明できなかった。
ただ、ひとつだけ確かなことがあった。
話している内容よりも、「話している人が、いま話している」という事実のほうが、この場では大事にされている。
彼はよく全体の話をした。部分にとらわれてはいけない、俯瞰が必要だ、流れを見ることが大事だ、と。言葉だけ聞けばもっともらしい。けれど、その言葉が置かれるたびに、目の前の具体的な困りごとは少しずつ遠ざかっていった。誰が何に詰まっているのか、どこで手が止まっているのか、どうすれば今日のうちに一つ前へ進めるのか。そういうことは、全体という言葉の霧の向こうへ追いやられていく。
不思議だった。
本当に広く見えている人の言葉は、細部を消さない。むしろ細部の置き場所を整える。けれど彼の言う全体は、細部を消すためにだけ使われているように思えた。
会議の終わりには、何かが決まったような空気だけが残る。だが実際には、曖昧な確認と、誰かの疲労だけが積み上がっている。私は毎回そこにいて、特に役に立つ発言をしているわけでもないのに、なぜか強く消耗していた。
うまく言えないが、あの場には独特の重力があった。
発言しなくても参加しているだけで何かを吸われるような感じ。
返事を間違えると、こちらが狭くて見えていない人間であるかのような位置に置かれる感じ。
相手の言葉をちゃんと受け取ろうとするほど、なぜかこちらだけが説明責任を負う感じ。
いま思えば、あれは議論ではなかった。
もっと静かな、配置の確認だったのだと思う。
誰が中央に立っているのか。
誰がその周りにいるのか。
誰が反論せずにうなずくのか。
誰が黙って座っているのか。
内容よりも、その配置のほうが大切にされる場では、正しさはあまり意味を持たない。必要なのは、中心が中心のままでいられることだけだ。
当時の私は、そこまで見えていなかった。ただ毎回、会議のあとに小さな棘のようなものだけが残った。言葉にできない違和感。怒るには小さすぎるのに、無視するには確実すぎるもの。
それは、ひどく弱いノイズに似ていた。
音量は小さい。けれど、ずっと鳴っている。
一度気づくと、もう完全には消えない。
たとえば、質問の形をした発言があった。
どう思いますか、とこちらに振られる。だから私は、自分なりに考えたことを順番に答える。前提を確認し、選択肢を分け、条件によって変わる部分も添える。そうすると相手は、納得したような顔をしない。かといって、明確に反論するわけでもない。ただ少しだけ空気がずれる。まるで、期待していた返答ではなかった、とでも言いたげに。
では、最初から何を聞きたかったのだろう。
答えが欲しかったわけではないのかもしれない。
自分の曖昧さを、誰かにうまく言葉にしてほしかっただけなのかもしれない。
あるいは、質問する側に立っている自分を確認したかっただけなのかもしれない。
その頃の私は、まだそこまで言い切れなかった。
ただ、真面目に答えるほど何かが噛み合わなくなる、という感覚だけはあった。誠実に話したはずなのに、会話が終わるころには、こちらが空気を読めていない側に寄せられている。そんなことが、一度ではなく、何度もあった。
たぶん私は、ずっとその場の意味を取り違えていたのだ。
中身を整えるための会議だと思っていた。
問題を進めるための質問だと思っていた。
よりよくするためのやり取りだと思っていた。
でも、もしあれが最初から別の目的で動いていたのだとしたら。
整えるためではなく、保つため。
進めるためではなく、位置を確かめるため。
理解するためではなく、中心であることを演出するため。
そう考えると、あの小さな棘の正体が少しだけ見えた。
違和感には、まだ名前がなかった。
けれどその輪郭だけは、もうこちらを見返しはじめていた。
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