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Chapter 3

終わらない異常

異常が長引くのは、誰も動いていないからではなく、正しい問いが場の中心に置かれないからかもしれない。

最初に異常が見つかったとき、多くの人はそれを一回きりの出来事だと思いたがる。

どこかにひとつ余計なものがあって、それを取り除けば元に戻る。原因はすぐに見つかって、対処は手際よく済み、少し気まずい空気だけが残って終わる。そういう筋書きのほうが分かりやすいし、心も少し楽だ。

けれど、現実はたいていもっと鈍い。

消したはずのものがまた現れる。
直したと思った場所が別のかたちで崩れる。
報告の文面だけが増えて、安心のほうはなかなか増えない。

私が見ていた異常も、そういう種類のものだった。

何かがおかしい。
それはたしかだ。
でも、どこまでがおかしくて、何を止めればいいのか、誰もはっきり掴んでいない。

こういうとき、人は二つに分かれる。

目の前のひとつを消すことに集中する人と、
なぜそのひとつがそこに存在できたのかを考える人。

前者のほうが、たぶん忙しそうに見える。すぐ動くし、結果も一瞬ではっきりしている。消した、直した、戻した、確認した。動詞が多いぶん、やっている感じも出る。

後者は、その場ではあまり目立たない。まず全体を止めたがるし、観察したがるし、証拠を残したがる。今すぐ目に見える成果が出ないことも多い。だから、場によっては慎重すぎる人に見える。

けれど、本当に厄介なのはいつも後者の問いのほうだ。

なぜそこに現れたのか。
何を経由して戻ってくるのか。
どこまでが見えていて、どこから先が見えていないのか。

その問いを避けたまま、目の前のものだけを消していくと、異常はだんだん人格を持ち始める。こちらが疲れた頃合いを見て、少し形を変えて戻ってくる。直したつもりの手つきを、まるで向こうも見ているかのように。

現場には、記録を送り続ける人がいた。

ここを直しました。
また別の場所が書き換わっていました。
いま確認しています。
いったん戻しました。

その文面はいつも誠実だった。
そして誠実であるぶんだけ、読んでいてつらかった。

何かがおかしいことを、いちばん強く引き受けているのが、その人だったからだ。

本来なら、原因の見えなさや判断の遅れは、もっと高い場所で引き受けられるべきだった。止めるべきものを止める、見えないものを見えないと言う、分からないことを分からないままにしない。そういう役割を持つ人がいるはずだった。

けれど、そういうときに限って、場の中心には別の種類の落ち着きが現れる。

大丈夫です、見ています。
状況は把握しています。
全体を見ながら進めています。

その言葉が置かれるたび、周囲は一瞬だけ安心する。
そしてその一瞬のあいだに、目の前の異常はまた少し育つ。

私は長いあいだ、この構図を少し離れた場所から見ていた。
離れているからこそ見えることもある。
手を出せないからこそ、どこが見えていないのかだけが見えることもある。

消すことと、止めることは違う。
直すことと、終わらせることも違う。

その違いが共有されないまま、場だけが動いているとき、人は不思議な疲れ方をする。
必死に手を動かしているのに前へ進んでいる感じがしない。
報告は増えるのに、安心は増えない。
関わっている人ほど、少しずつ言葉が短くなる。

終わらない異常というのは、現象そのものだけを指すのではないのかもしれない。
正しい問いに辿りつけないまま、対処だけが続いてしまう状態。
その状態そのものが、ひとつの異常なのだと思う。

あとになって振り返ると、いちばん怖かったのは、壊れていくものそれ自体ではなかった。
壊れていくものを前にしてなお、場の演出が先に守られていたことのほうだった。

現場は疲れていた。
記録は積み上がっていた。
けれど、中心だけはいつも落ち着いて見えた。

それが本当の意味で落ち着いていたのか、
それともただ、落ち着いて見えることだけを守っていたのか。

当時の私はまだはっきり言えなかった。
ただ、その差だけは、たしかに見えていた。