Chapter 5
ヨシヨシの技術
明確さを求める会話に見えて、実は慰めを求めていることがある。この章ではその構造に名前を与え、少しだけ外側へ出る。
ある種の人は、説明を求めているように見えて、実際には慰撫を求めている。
それに気づくまで、少し時間がかかった。
最初のうちは、相手が差し出してくる話をそのまま受け取っていた。大変だったこと、間に入って苦労したこと、自分が我慢すれば丸く収まると思ったこと。そういう話を聞けば、こちらも普通に考える。何が起きたのか。どこに問題があるのか。本当にそれでよかったのか。もし次に似たことが起きたら、どうしたほうがいいのか。
だから、私は普通に答えていた。
それはあまりよくないと思います、とか。
そこは無理に抱えないほうがいいのでは、とか。
その場を収めることと、あなたが消耗しないことは別に考えたほうがいい、とか。
いま振り返ると、こちらの返答はずいぶんまともだったと思う。少なくとも、会話としては筋が通っていた。相手が困っているなら、困りごとの構造を整理して、少しでも楽になる方向を考える。それはごく自然な反応だった。
ただ、会話は妙なふうに終わった。
話したはずなのに、どこにも着地しない。
助言を返したはずなのに、受け取られた感じがしない。
むしろ、こちらが何かひどく空気の読めないことを言ったかのような、ほんのわずかな静けさだけが残る。
私はしばらく、その静けさの意味が分からなかった。
相手は悩みを打ち明けているように見えた。だから、こちらは悩みに返事をした。にもかかわらず、会話の温度は少しだけずれる。そのずれは小さい。けれど、何度か繰り返されると無視できなくなる。
ある日、ふと思った。
もしかすると、この人は答えを欲しがっていないのではないか。
もっと言えば、理解すら欲しがっていないのかもしれない。
欲しいのは、別のものなのかもしれない。
たとえば、
それは「大変でしたね」かもしれない。
それは「よくやってますね」かもしれない。
それは「あなたが間に入ってくれて助かりました」という、やわらかく撫でるような言葉かもしれない。
そう考えた瞬間、いくつかの場面が一度に並び直された。
苦労話が始まるタイミング。
妙にこちらの反応を待つ間。
正論を返したときに生まれる微細な停滞。
会話の中身よりも、感情の受け取り方に重心があったこと。
あれは相談ではなかったのだ。
少なくとも、私が思っていた意味での相談ではなかった。
もっと別の、儀式のようなものだったのだと思う。
まず、自分がどれだけ大変だったかを差し出す。
次に、その大変さが美談になるように整える。
最後に、相手がそこに適切な柔らかさで触れてくれるのを待つ。
その一連の流れが成立して、はじめて会話は完了する。
ところが私は、その儀式の作法を知らなかった。
知らないまま、内容の話をしてしまう。
構造の話をしてしまう。
善し悪しの判断に入ってしまう。
すると会話は静かに失敗する。
失敗といっても、表面上は何も起きない。相手が露骨に怒るわけではないし、こちらも口論になるわけではない。ただ、欲しかった反応が来なかった、という空白だけが残る。だから当時の私は、何が起きたのかうまく説明できなかった。
この手の会話は、少し厄介だ。
露骨な依存ではない。
明白な命令でもない。
こちらをはっきり責めるわけでもない。
けれど、うまく応じられないと、なぜかこちらが悪い気分になる。
冷たい人間になったような気がする。
思いやりが足りなかったような気がする。
たぶん、そこが肝だったのだと思う。
この技術は、相手に直接何かを強制しない。
ただ、「ここで撫でてくれるはず」という期待を場に置く。
そしてその期待に応じなかった側が、なんとなく不親切だったように見える余地を残す。
ずいぶん静かな技術だ。
だが静かなものほど、長く効く。
私は長いあいだ、その手触りだけを受け取っていた。
会話のたびに少しずつ疲れるのに、どこが消耗の入口なのか分からない。こちらは普通に話しているつもりなのに、終わるころにはなぜか相手の感情の後始末をさせられている。そんなことが何度もあった。
それに名前がついたのは、かなり後になってからだった。
ヨシヨシ待ち。
ずいぶんふざけた名前だと思う。
けれど、ふざけた名前だからこそ見えるものもある。
その言葉を思いついた瞬間、会話の構造はひどく単純になった。大変だったという話の中に、問題解決の意志がどれくらいあるのか。自己点検があるのか。次を変える気があるのか。それともただ、いま傷ついた自分を肯定してくれる手を探しているだけなのか。
そこが見えるようになると、こちらの返し方も少し変わった。
何も毎回、正論を言う必要はない。
かといって、無条件で撫でる必要もない。
柔らかく受け取って、そのままそこで止めることもできる。
そうなんですね、とだけ言う。
軽くうなずく。
それ以上、相手の物語に入っていかない。
以前の私は、それを冷たさだと思っていた。
でも今は、むしろ境界線に近いものだと分かる。
相手の感情を理解しないのではない。
理解したうえで、それを自分の責任にしない。
撫でることが必要な場面も世の中にはある。
誰かが本当に傷ついていて、ただ少しの温度を必要としている瞬間もある。
けれど、すべての苦労話がその種類のものとは限らない。
中には、苦労そのものよりも、苦労している自分の像を守るために語られる話もある。
その違いが分かるようになると、会話はずいぶん静かになる。
そして静かになったぶんだけ、自分の輪郭が戻ってくる。
あの頃の私は、相手の話をきちんと受け取ろうとしすぎて、自分の手をどこまで差し出すべきか分からなくなっていた。
いまはもう少しだけ分かる。
撫でる手つきには、技術がある。
そして、その技術に巻き込まれないための技術もまた、ちゃんと存在する。
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