疎外とは、問いが返ってこないこと
槙島聖護の孤独を手がかりに、問いが応答されないときの疎外について考える
問いを投げても、返ってこなかったことはあるだろうか。
『PSYCHO-PASS』の槙島聖護について考えていて、あるときふと腑に落ちたことがある。
彼の疎外感は、免罪体質だったから生まれたのではないのかもしれない。
もっと手前に、もっと静かで、もっと深い理由があったのではないか。
それはたぶん、自分で考え、自分で感じ、自分の言葉で返してくる相手が、ほとんどいなかったことだ。
免罪体質という設定は、もちろん彼を特徴づける重要な条件ではある。
シビュラシステムの判断から外れてしまう、制度上の例外であること。
でも、それは彼の孤独の原因というより、その孤独が物語のなかで見える形になった結果なのではないかと思う。
本当に彼を孤独にしていたのは、自分が問うたときに、問いとして返ってくるものがあまりにも少なかったことではないか。
槙島は、単に秩序が嫌いだったわけではないのだと思う。
退屈な社会に飽きて、壊したくて仕方がなかっただけでもない。
むしろ彼はずっと、誰かが本気で応答してくるのを待っていたように見える。
なぜ疑わないのか。
なぜ、その基準をそのまま受け入れるのか。
なぜ、自分の言葉で怒らないのか。
彼が投げていたのは、たぶんそういう問いだった。
けれど彼のまわりにいた多くの人間は、考える前に判定され、迷う前に処理され、自分の感覚を持つより先に、社会の側から正しさを配給されていた。
そこでは、問いは危険なものというより、そもそも必要のないものになっていく。
問いがなくても社会が回るように設計されているからだ。
与えられた環境にそのまま馴染み、
与えられた制度をそのまま受け入れ、
与えられた物の見方や感じ方を、自分のものとして疑いもなく引き受けてしまう人が、あまりにも多い。
もちろん、誰もが毎回すべてを根本から問い直して生きているわけではない。
そんなことは現実にはできない。
でも、少なくとも一度も立ち止まらず、自分はいま何に従っているのか、それはほんとうに自分の感覚とつながっているのか、
と確かめようとしないまま生きていくことはできる。
そして、たぶん槙島が耐えられなかったのは、そういう無自覚な従順さが社会の標準になっていることだった。
そういう世界で問う者は、変わり者になる。
いや、変わり者ですらないのかもしれない。
ただ、応答の回路から外れてしまう。
疎外とは、仲間外れにされることだけではない。
人数の問題でもない。
一人でいることそのものでもない。
疎外がほんとうにきついのは、こちらが投げた問いが、返事として戻ってこないときだ。
反論でもいい。
否定でもいい。
見当違いでも、まだましだ。
少なくとも、相手が自分の頭で受け止めて、自分の言葉で返そうとした形跡がそこにはある。
きついのは、問いが問いとして処理されないことだ。
空気で流される。
雰囲気に回収される。
もっと大きな正しさの中に吸収される。
あるいは、最初から存在しなかったことにされる。
たぶん槙島聖護が感じていたのは、そういう種類の孤独だった。
彼は社会に裁かれなかったから孤独だったのではない。
社会とほんとうの意味で対話できなかったから孤独だった。
そう考えると、彼が狡噛慎也や常守朱に強く反応したことも、少し違って見えてくる。
思想が一致していたからではない。
味方になりそうだったからでもない。
そこに、問いが返ってくる可能性を見たからではないか。
相手が自分と同じ結論にたどり着く必要はない。
むしろ、同じでなくていい。
重要なのは、その人が自分の頭で考え、自分の言葉で立とうとしているかどうかだ。
槙島が欲しかったのは同志ではなく、応答だったのだと思う。
この感覚は、フィクションの中だけのものではない。
学校でも、仕事でも、日常の雑談でも、ときどき似たようなことが起きる。
こちらは何かをほんとうに知りたくて聞いているのに、答えが返ってこない。
説明の代わりに空気が返ってくる。
考えの代わりに定型句が返ってくる。
問いを受け止めるより先に、「そういうものだから」で片づけられる。
その瞬間に起きているのは、単なる会話不全ではないのだと思う。
自分がこの場にいてもいなくても同じだ、という感覚が、静かに差し込んでくる。
私が何を疑い、どこで引っかかり、何を言葉にしようとしているかは、この場の運行にとって本質的ではない。
そういう感覚だ。
人は、意見が違うだけでは、そこまで深くは傷つかない。
ほんとうにつらいのは、意見の違いですら始まらないときなのかもしれない。
こちらの問いが、問いとして成立しない場所に立たされたとき、人は自分の輪郭ごと薄くなっていく。
思い返せば、私にもそういう場面はいくつもあった。
学校の授業で、みんなが何となく分かったことになっている言葉の意味が気になっても、そこを本気で問い返す空気はなかった。
仕事の場でも、ほんとうは整理されるべき論点より、場を壊さないための反応のほうが優先されることがある。
そのたびに感じていた居心地の悪さを、昔はうまく言えなかった。
自分がひねくれているのか、空気が読めないのか、そのくらいにしか思えなかった。
でも今なら少しだけ分かる。
あれは必ずしも、意見の不一致に傷ついていたのではなかった。
問いが返ってこないことに、摩耗していたのだと思う。
問いというのは、正解を出すためだけのものではない。
ここにちゃんと人がいると確かめるためのものでもある。
何かを疑い、引っかかり、言葉にし、相手から別の言葉を受け取る。
その往復のなかで、ようやくこちらも相手も、ただの役割ではなく一人の人間になる。
だから、その往復がない場所は、思っている以上に寒い。
槙島聖護という人物のおもしろさは、危険な思想や美学だけにあるのではないと思う。
彼を見ていて妙に引っかかるのは、あの極端な人物の中に、かなり普遍的な孤独が埋め込まれているからだ。
自分の頭で考えたい。
できれば、相手にも自分の頭で考えてほしい。
同意はいらない。
せめて、問いとして返してほしい。
その願いが長く満たされないとき、人は社会から追放されなくても、内側から疎外されていく。
そう考えると、疎外という言葉の輪郭も少し変わってくる。
疎外とは、どこか外に追いやられることではない。
むしろ、ちゃんと同じ場に参加しているはずなのに、応答の回路にだけ入れないことだ。
こちらは話している。
こちらは問うている。
なのに、返ってくるのは答えではなく処理だけだ。
その感じを、私はたぶんずっと知っていたのだと思う。
だから槙島聖護を見たとき、危うさに距離を取りながらも、どこかで分かってしまう部分があった。
もちろん、彼のやり方に共感するわけではない。
世界を壊せば問いが回復するわけでもない。
破壊はしばしば、対話の不可能性をさらに深くする。
それでも、彼の中にあった孤独の核には、見覚えがある。
問いが返ってこない。
そのことに耐えきれなくなる。
その苦しさを、社会への敵意としてしか表現できなくなる。
あの人物の悲劇は、そこにあったのかもしれない。
そしてたぶん、この話は槙島聖護だけの話ではない。
いまの社会には、情報も意見も反応もあふれている。
返ってきているように見えるものは多い。
でも、それらがほんとうに問いへの応答になっているかというと、案外あやしい。
速い返事。
うまい要約。
角の立たない感想。
それらは会話を成立させることはあっても、対話を成立させるとは限らない。
こちらの問いのかたちを受け取り、いったん自分の中で考え、自分の言葉として返す。
その少し面倒な手間が抜け落ちた瞬間、会話は滑らかになっても、どこか空疎になる。
人が本当に孤独になるのは、沈黙の中だけではないのだと思う。
むしろ、言葉が大量に行き交っているのに、問いだけが戻ってこない場所でこそ、人は強く孤独になる。
疎外とは、問いが返ってこないこと。
いまのところ、私はそう考えている。